先週は、水曜日に川崎に移動し、川崎産業振興会館というところで、中小企業診断士の資格更新のために義務づけられている研修(理論更新研修)を受講し、その日は川崎駅近くのホテルに泊まり、翌朝京都に向かい、学生時代からの親友だった、伊住(千)政和君の墓参をした。彼の墓は大徳寺の塔頭で聚光院というところにある。彼が亡くなってちょうど20年になる。享年44歳、あまりにも早すぎる死だった。
ホテルにチェックインして、タクシーを拾い、堀川通りを北上して、15分ほどで大徳寺に着いた。タクシーには山門前で待ってもらい、境内を4分ほど歩いて、彼が眠る聚光院に行き、事務の人に挨拶をしてから彼の墓前に立った。そして10分余り、ありったけの報告を彼にするのが例年の習わしになっている。それから、再びタクシーに乗り、母校の同志社大学の東門で降りて、しばらくキャンパス内を歩いた。
千政和君と初めて会ったのは、大学2年の4月、英語の授業の際だった。ウルフという外人の講師が、個々に、英語で自己紹介をするように指示をした。私よりも3列くらいに座っていた彼が、「my hobby is waching pro wrestling」と言ったので、根っからのプロレス狂で、空手道場に通ったり、トレーニングジムに通ったりして、体を鍛えていた私が、それを受けて「my hobby is playing pro wrestling」と自己紹介した。その瞬間、千政和君が、後ろを振り返って私をじっとみた。そして、授業が終わってから、彼の方から歩み寄ってきて、「きみもプロレスファンか」といきなり声をかけてきたのだ。「僕は、プロレスをやりたいと思っているんや」と私が思わず答えると、彼は、「おもろいやっちゃな。僕は千というんや」と豪快に笑った。
それを起点にして、彼が44歳で早世するまで、25年間、彼との交流が続いたのだ。特に、学生時代の3年間は濃密で、二人で学生プロレスの団体を創設、同志社プロレス同盟というが、学生プロレス団体の草分けともいえる存在で、ここから、私が把握しているだけで、3名のプロレスラーを輩出している。彼は、茶道裏千家家元二男という超一流の家柄にしては、ざっくばらんな人柄で、誰に対しても同じような態度で接し、しかも、中村勘九郎似の男前、気前が良くて、話し上手、歌も上手い、いいところばかりの人間で、そんな彼が、私のような田舎者で、朴訥な人間を近しい友人として扱ってくれたものだと、今でも信じられないくらいである。
彼との想い出は、尽きることがないくらいで、今でも私の宝物となっている。実は、昨日も彼の夢をみた。京都に行ったので、潜在意識の中の彼が出てきたのだと思う。それも例年のことだ。夢の中の彼は、実に雄弁で、明るく、得意の物真似やジョークを連発して、周囲の者を愉しませてくれる、根っからのエンターテナーなのだ。今でも鮮明に覚えている、田中角栄や田中邦衛の物真似は、天下一品だった。
後にも先にも、私には親友と呼べる友人は、彼以外にいない。それくらい、彼は素晴らしく魅力的な人だった。誰からも好かれ、愛された彼が、44歳という年齢で往ってしまい、私のような凡人が、彼の死後、20年も馬齢を重ねている。皮肉なものである。彼が存命ならば、64歳で、お互い、それなりの年齢になり、長い付き合いなりのくだけた会話を愉しむことができただろう。私も私なりに懸命に生きていた、その姿を彼に見て欲しかった。夕暮れ時に、ホテルに戻り、彼を想って一句詠んだ。「もの言わぬ 親友(きみ)の墓前に しばし立ち 積もる話は すべてできず」
株式会社フォレスト・ミッション 代表取締役、林業経営コンサルタント、経済産業大臣登録・中小企業診断士
我が国における林業経営コンサルティングを構築した第一人者であり、これまで460超の林業事業体の経営コンサルティングに携わる。2015年から、活動拠点を東京から信州・蓼科に移して活動中。