フォレスト・ミッションBLOG

林業の産業としての自立、そして林業に従事する人たちが誇りを持てるように、私たちは、自らが信じる、森林・林業のあるべき姿を、林業関係者の皆様と一緒に創造していきます。

未分類

亡き妹に捧げるレクイエム

投稿日:

 妹、万里がこの世を去って、もうすぐ丸4年になる。4月14日が命日だ。先月27日に父が老衰で亡くなり、父の納骨の際に、妹の分骨を一緒に埋葬することになっている。妹は生きていれば61歳、これから人生の実りを迎える年齢だった。両親よりも早く逝く…それはないだろうと思うが、彼女には彼女なりの運命というものがあったのかもしれない。

 和歌山県・那智勝浦町での私の家族は、両親と兄妹三人だった。母は、いつか妹と一緒に暮らすことを楽しみにしていた。その夢は潰え、母は深い悲しみの中で、この4年間を生きてきた。そして、永年連れ添った父が先月、94歳で逝去した。肉親は5人から3人になり、その母も92歳、私は二男だが、これから、実家に滞在する時間を大幅に増やそうと思っている。

 妹と私は、昭和54年(1979年)から2年間、京都市北区の小さなアパートで生活をした。私は同志社大学に通い、妹は光華女子短大に通った。妹は、純粋で物静かな学生だった。私がアルバイトで稼いだお金で、「何か欲しいものがあったら買ったるよ」と聞くと「何もないよ」と静かにほほ笑むような女性だった。ある時、古い畳の上に布団を敷いて寝ている妹をみて、何となく可哀そうになり、大学の生協でベッドを買い、妹にプレゼントした。

 彼女は、そのベッドが気に入ったようで、「このベッド、よう寝れるわ」と嬉しそうに言った。後日、妹が最も信頼していた女性から、妹が、学生時代、お兄さんにベッドを買ってもらったことが本当に嬉しかったと言っていたと聞いた。私自身も、妹と過ごした京都での2年間は、平和で穏やかで、心豊かな時間だった。昭和のいい時代だった。

 蓼科の自室の仕事机に置いている妹の遺影は、もちろん何も語らない。でも、目を瞑れば、あの当時、妹といろいろ話をしたことを思い出す。何もなかったけど、楽しい日々だった。昭和56年(1981年)に私たちは大学を卒業し、私は近畿放送に就職、妹は実家に戻って、近所の病院の事務員となり、両親のそばで生活をした。それからは、時々、電話でお互いの近況を話し合うことが常になった。妹の電話での最後の言葉は、「お兄ちゃん、やっぱり最後は兄妹だね」だった。もっと生きて欲しかったと思う。私も母を見送ってから、いずれ、妹のいるところにいくだろう。そして、また、学生時代のように、静かな時間を共に過ごしたいと思っている。

-未分類

関連記事

保守陣営内での喧噪に寄せて

 一昨年10月の「日本保守党」結党以来、私は同党の党員となり、陰ながら応援をしている。代表の百田尚樹氏は、同志社大学の同窓であり、同じ関西人ということもあるが、事務総長の有本香氏も傑出した保守論者、さ …

ゴルフコース内の神社で祈る

 蓼科東急ゴルフコースには、コース内に「鹿山神社」という小さな祠(ほこら)がある。アウトコースの5番ショートホール、ティーグラウンドの後ろに建っているのだが、私はここに来るたびに、この神社に深々と頭を …

長野駅前殺傷事件に思うこと

 この事件が発生する2日前の1月20日、午前10時頃、私は所用があって長野駅前にいた。事件発生を知ったのは、鳥取出張中の22日夜のことだった。JR長野駅善光寺口のバス停で、刃物を持った男が並んでいた男 …

岸田総理襲撃事件で考えたこと

 土曜日の昼前、仕事関係の資料を作成中、突然飛び込んできたニュースに驚きを禁じ得なかった。昨年7月8日、忘れもしない、安倍元総理の暗殺事件が奈良市内で起こり、今度は、隣県の和歌山市で、現職の総理が狙わ …

別れと出会いの季節に

 3月末は、企業の人事異動や入社、学校の入学準備などあり、人の動きが急になる時期である。思い起こせば、自分自身もこれまでの人生で25回の引っ越しを経験した。前にも書いたが、そのたびに「引っ越し貧乏」に …