今日の蓼科は、快晴で、気温は低いが日差しは暖かい。来週半ばあたりに最後の雪が降り、その後は、一気に春に向かっていく気配で、長い冬も漸く終わろうとしている。この時季の定番の曲は、何と言っても「なごり雪」であり、伊勢正三の名曲でもある。私が最も好きなフレーズは「いま、春が来て きみはきれいになった」である。別れる恋人を「きれい」だと言える、複雑な心情を見事に描写していると、この曲を聴くたびにいつも思うのだ。
最近、LGBTQ(性的マイノリティの総称)とかDiversity(多様性)など、横文字に凝縮された、キーワードが飛び交い、ビジネスシーンや生活面でも、そういうことに留意しないと、企業活動や日常生活がうまくいなかいかのような論調が世の中の標準になってきている。そこについて、議論することさえ許されないような空気もあり、普段、そんなことは「社会的常識の範囲」で判断すればいいと思っている人間にすれば、「何故、ことさらそれを前面に出すのか」という疑問を禁じ得ない。そういう思いを持っているのは、私だけではあるまい。
それとは、かなり観点がずれるが、Generation Gapという言葉がある。「世代間における価値観の違いやずれ」と訳されているが、前述のキーワードよりも、現実的で、身近な概念で、かつ普遍的、誰もがそれなりに感じているものだろう。一世代を10年と定義すると、それを超えた年齢差には、多い少ないはあっても、ジェネレーションギャップというものが存在するということになる。
私の世代(昭和30年代)だと、10歳程度年長の「団塊の世代」とのジェレレーションギャップが甚だしい。私はそのことを、大学卒業後、放送局に勤めた際に、いやというほど思い知った。報道記者としてのスタートだったのだが、直近の先輩が、10代程度年長の団塊の世代だったのだ。要するに、学生運動の洗礼を浴び、また、その残滓を引きずっている世代である。正直なところ、私は最後まで彼らの頭の中とか思想というものを理解できなかった。
自分なりに、はっきりとわかったのは、「彼らには、自身の思想とか哲学とか、信念などというものが存在しない」ということだった。要するに、「流されるまま生きている」ということ。「生命かけてと誓った日から…」というフレーズで始まる「あの素晴らしい愛をもう一度」という団塊の世代の名曲があるが、社会人としての彼らからは、「仕事に対して賭けているもの」とか「理念」といったものを何ら感じることはなかった。
それから40年余りの歳月が流れ、彼らの世代はビジネスシーンからは殆ど退場し、殆どが年金生活者になっている。その後の世代である我々も、65歳という「年金受給世代」に突入しているが、まだまだ、現役で頑張ろうとする(諸事情によって頑張らざるをえない)人間が圧倒的に多く、今度は、下の世代とのジェネレーションギャップに葛藤しつつも、何とかうまくやっていこうとするのだ。
最近、自分の周りに30代の世代が、結構集まってきてくれているという事実があり、それは、ジェネレーションギャップを超えているというよりは、「価値観が近接する」ないし「価値観を共有できる」というところで、つながっているのではないかと考えている。時代が変わっても変わることのない価値基準に基づいて、かつお互いを認め合う関係性の中で、世代を超えた交流や協働が生まれるのだと思うのだ。そして、それは他の価値観を持つ人たちを排除する「分断」ではなくて、一種の「棲み分け」であり、もっといえば、その人独自の「理念」や「哲学」に帰結していくのだろう。
株式会社フォレスト・ミッション 代表取締役、林業経営コンサルタント、経済産業大臣登録・中小企業診断士
我が国における林業経営コンサルティングを構築した第一人者であり、これまで460超の林業事業体の経営コンサルティングに携わる。2015年から、活動拠点を東京から信州・蓼科に移して活動中。