自身の後継者を育成し、バトンタッチしていくのは、その道を開拓した者の責務であると、ずっと意識してきた。これまで、経営コンサルタント(中小企業診断士)としての後進の育成は、神戸にいた時代から、「プロコン育成塾」「プロコン錬成塾」等で取り組んできており、その中から、第一線で活躍して、中小企業振興に貢献している立派な人材が相当数いて、心強く思っているところだ。しかしながら、私の事業領域である、森林・林業の分野においては、その規模も小さいこともあり、自身の後継者育成のハードルは高かった。
しかしながら、ここにきて、和歌山県と宮城県、山梨県から3人の中小企業診断士資格取得者を含む若手人材が、私のところで勉強したいという申し出をしてくれて、明日から、ここ蓼科を会場に2日間の「林業経営コンサルタント育成塾=坪野塾」を開催する運びになった。「経営コンサルタントとしての心構え」から「林業事業体の経営コンサルティングの基礎」まで、みっちりと研修をやることになっている。
私自身の駆け出しの頃を思い起こせば、1999年4月に中小企業診断士の登録をして、1年間は全く案件に関わることができず、雇用促進事業団の事業だった、「雇用訓練(要は失業者対策事業)」の講師をするなどして食いつないだ。そして、翌年の2000年8月から、出身県である和歌山県中小企業支援センター(中小企業振興財団)のマーケティング・マネジャーに起用され、2年間、大阪から和歌山市に通い、県内の中小企業やベンチャー企業の支援をした。経営コンサルタントとして、正面から中小企業支援に携わったのは、マネジャーを卒業した2002年の秋のことだった。
経営コンサルタントとしての「恩師」であり、多くの教えをいただいた、中小企業再生支援の泰斗である森井義之先生の門を叩いたのが、2003年3月のことだった。東京・赤坂の書店で、森井先生の著書「これだ、中小企業再生の極意」
をみつけて、そこに先生の事務所の電話番号が記載されていたので、そこから電話をして、飛び込みのような形で、森井先生にお目にかかったのが最初だった。その時、森井先生は67歳、奇しくも、今の私とほぼ同年齢だった。先生は、初対面の私に対して「中小企業診断士で、私に会いに来た人は、きみが初めてだ」と言って、長時間、いろいろな話をしてくださった。私にとっては、経営コンサルタントを志してから、初めて、「教えを乞うことのできる尊敬すべき先達」に巡り合うことができ、感無量だった。
それから、私が東京を離れる2015年まで、森井先生との、いわゆる師弟関係は続いた。初めてお目にかかった2003年3月から私が森林・林業に専門化する2007年までの約4年間は、関西から上京するたびに先生の事務所を訪ねて、先生が独自に構築された「PBM理論」を学び、また、先生がコンサルティングをしている現場にも同行させていただいた。森井先生には、本当にたくさんのことを教えていただき、今の自分があるのは、先生の教えがあってのことだと感謝の気持ちで一杯だ。そして、先生の教えは、私だけが学ぶのはもったいないということで、私の後輩達にも、学ぶ機会を創り、何人かの後輩診断士は、先生のPBM理論を受け継ぎ、中小企業支援に活かしている。
森井先生の門を叩いてから、21年の歳月が流れ、私自身が、初めてお目にかかった時の森井先生と同年齢になろうとしている。そして、この21年間、自分が培ってきたノウハウを、後進の人たちに教授しようとしている。いつの間にか、私もそれなりの年齢になり、若い世代の人たちにバトンタッチをしていく境地になった。もちろん、まだまだ、現役で頑張るつもりだが、今から後継者を育成していかないと、数年後の事業承継が現実のものにならない。今回の「坪野塾」もその一環だと位置づけている。「本当に一流の経営コンサルタント(経営者・事業家も)は、現役の時に、自身の後継者を育てる」という定理を、何とかこの数年で実践できればと思っているところだ。
株式会社フォレスト・ミッション 代表取締役、林業経営コンサルタント、経済産業大臣登録・中小企業診断士
我が国における林業経営コンサルティングを構築した第一人者であり、これまで460超の林業事業体の経営コンサルティングに携わる。2015年から、活動拠点を東京から信州・蓼科に移して活動中。