明日から、また、泊まりがけの出張ということで、今夜、その準備をするのだが、夕食を摂った後、以前からやろうと思っていた、愛用のギターの弦の交換を30分くらいでやって、なかなかいい音を奏でる、愛器「マーチンD-45」で、「神田川」を弾き語りで歌った。この曲は、ピッキングでやるよりも、やはり、爪弾きで演奏する方が味が出て、いい感じになる。私の場合は、Emのキーで弾き語りをする。

「神田川」は、フォークグループ(南こうせつ・伊勢正三・山田パンダ)「かぐや姫の代表的なヒット曲で、1973年9月のリリース、ラジオで火がつき、大ヒットとなった。当時、私は16歳、和歌山県の新宮高校の一年生だった。吉田拓郎の曲に感化され、中学一年からギターを始めて、神田川も比較的やさしいコード進行だったので、すぐにマスターした。但し、この曲の歌詞で描かれているシーンが当時の私には再現できず、「そういう男女関係があるのかな」というのが、正直なところだった。
この曲の作詞をしたのは、喜多條忠(まこと)という作詞家で、彼は1947年(昭和22年)生まれの団塊の世代で、この曲が世に出た時には26歳、彼が描いたシーンは、早稲田大学在学中、同年代の女学生と同棲していた頃のことだと云われている。喜多條氏は、その後、大学を中退して、フリーの脚本家として活動するのだが、作曲をした南こうせつ氏とは、仕事先の文化放送で知り合ったとのことで、こうせつ氏が詞を書いてほしいと依頼したそうである。
近畿放送勤務時代から親しくさせていただいている、音楽評論家の富澤一誠さんは、神田川の詞を評して、私にこう言ったことがある。「若かったあの頃 何も怖くなかった ただあなたのやさしさが怖かった」というフレーズは、実に凄いもので、「あのフレーズはなかなか書けるものではない」と。男は結構ぶっきらぼうなのだが、その女性にはやさしいところがあった。しかし、彼女にとっては、その彼のやさしさが、いつかそうでなくなってしまうことが、不安でならなかったと、私なりの解釈をしているが、結局、彼らは別れてしまうことになったようで、その風景は、かぐや姫の次作の「赤ちょうちん」や「おまえのサンダル」等で見事に描かれている。もちろん、両曲とも喜多條忠しの作詞だ。
その喜多條忠氏は、4年前の2021年に亡くなった。享年74歳だった。彼と同棲していた女学生は、その後、ある映像制作会社に入社し、役員にまでなったという「伝説」が、私が在籍していた頃の放送業界でまことしやかに語り継がれていた。「神田川」を弾き語りで歌う時、私の脳裏には、さまざまなことが走馬灯のように浮かんでは消える。この曲を初めてラジオで聴いた1973年(昭和48年)から52年の歳月が流れた。この間、数え切れないくらいの出逢いと別離があり、それに伴う喜怒哀楽があった。歌い終えて、しばらく目を閉じていると、さらに多くのモノクロームの想い出のシーンが再現され、まるで数分の短編映画が延々と「上映」されるのだ。

株式会社フォレスト・ミッション 代表取締役、林業経営コンサルタント、経済産業大臣登録・中小企業診断士
我が国における林業経営コンサルティングを構築した第一人者であり、これまで470超の林業事業体の経営コンサルティングに携わる。2015年から、活動拠点を東京から信州・蓼科に移して活動中。