「男と女」という曲は、1982年にリリースされた、チャゲ&飛鳥の名曲である。「黄昏の騎士」というアルバムに収録されている。我々の世代のど真ん中の曲で、私自身、この曲には思い入れが強い。もう30年前余り前になるが、前職の近畿放送で記者をしている頃、取材で知り合ったある女性から、この曲をギターの弾き語りで歌ってほしいとリクエストされて、覚えた曲だからである。
いまでも、時々、愛用のマーチンⅮ‐45で弾き語りをしているが、とにかく、詞と曲が調和していて、素晴らしい曲だと思う。飛鳥涼自体は、愚かな事件を起こして、事実上、音楽シーンから消えてしまい、その才能を至高だと評価する私としては無念極まりないのだが、この曲は、時代を超えて生き続けるものとずっと思っていた。思っていたと過去形にしたのには理由があって、例の「LGBT理解増進法」の絡みで、この曲が人前で歌えなくなる、聴けなくなるという懸念を真剣に感じているからだ。
私と同じような「保守主義」の価値観を持つ人、そして、同年代でこの曲の良さを共有できる人は、おそらく同じことを考えているものと思う。つまりは、上に示した歌詞の一節である。「心の支えは いつの時代も 男は女 女は男」このフレーズが、LGBT(Q)に対する差別解消というトレンドが罷り通る時代には、引っ掛かるというわけである。「そんなの極論だろう」と馬鹿にする者も多分多いと想定されるが、極論ではないと思っている。
この曲の歌詞をフルコーラス分、読んでみると、「心の支えは…」という、いわゆる「決め」のフレーズの意味が心に染みて理解できるだろう。しかしながら、すでにこの世の中には、男と女以外の人たちもれっきとして存在し、その関係性の中で「心の支え」となっているという現実もある。この曲が、40年前のもので、その時代であれば、あるいは、せいぜい20年ほど前までであれば、殆ど問題なく、大多数の人に受け入れられ支持されていただろう。
「そんなことはない。この「男」と「女」を、実情に合わせて読み替えればいいのだ」と、リベラルな考え方を持つ人たちは、「寛容さ」とか「多様性」といったキーワードを使って、問題の本質を糊塗しようとするのだろう。私自身は、寛容さも多様性も否定はしないが、「ポリティカル・コレクトネス」として捉えると非常に危険な言葉だと警戒している。「たかが、歌ではないか」と笑う向きもあるかもしれないが、その「たかが…」というのが危ないのだ。
LGBT理解増進法の法制化で、今後、いろいろな現象、それも、これまでになかったものがどんどん出現してくるだろう。そして、それらが、日常生活や仕事に害のないものであればいいが、明らかに有害ないしは混乱を招くものでないという保証はどこにもない。兆候や小さくても嚆矢の段階で、きちんと自分の頭で判断し行動していくことが大事だと思う。但し、私自身は、この「男と女」は、自分のレパートリーの中でもベスト5に入る名曲であり、これからも、人前で堂々と歌うつもりでいる。
株式会社フォレスト・ミッション 代表取締役、林業経営コンサルタント、経済産業大臣登録・中小企業診断士
我が国における林業経営コンサルティングを構築した第一人者であり、これまで460超の林業事業体の経営コンサルティングに携わる。2015年から、活動拠点を東京から信州・蓼科に移して活動中。